峯田ブログ

2012年10月 の記事一覧

タイル貼り

カテゴリー:その他

投稿者:mineta

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いつもありがとうございます。

何枚かタイル貼りの写真貼りました。

これから少し特集でやっていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市松貼りになります。

目の錯覚を起こす場合が有りますので、くれぐれも使い方には気を付けてください。

 

300角タイル 玄関 ブラウン系

 

 

 

 

 

 

 

これは1色のタイルを貼っております。

目地込300角タイプと目地込305などの種類が有ります。

 

玄関に300角タイル貼り ブラウン色

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これから目地詰めておしまいです。

 

 

300角 滑り止め仕様

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンションのエントランスまでのアプローチにタイル貼りです。

もちろん滑り止め加工されているタイルです。

 

 

ブラウン系

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏側からになります。










川口市エクステリア工事店
 
お庭のリフォーム工事



 

 

 

現場付近

カテゴリー:その他

投稿者:mineta

おはようございます。

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いつもありがとうございます。

 

今回の現場付近です。

 

目の前には川が有り、カモがうろちょろとしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に行田の忍城です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前を通り過ぎただけですけど埼玉に住んでいて、一回も来たことが無かったですね。

今度ゆっくりと来て観てみたいです。

日本最大のしゃちほこを見てみたいですね。

 

 

行田市ホームページにて

 

忍城(おしじょう)とは

関東七名城に謳われた忍城は文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐え、戦国の世を生き抜いた名城です。

忍城は明治維新の際に壊されましたが、忍城本丸の跡地に往時の面影を再現した忍城址(おしじょうし)が整備されています。この事業に対し、「’93さいたま景観大賞」や「都市景観大賞」が授与されています。また、忍城址内には郷土博物館が併設されています。

忍城

 

忍城に関する歴史

忍城の築城

戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。

永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。

石田三成の水攻め

天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています

石田堤の見学

行田市堤根地区

行田市教育委員会文化財保護課行田市本丸 2-20電話048-553-3581

江戸時代の忍城

天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。
以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。
元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。
文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(まつだいらただたか・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年 (1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。も ともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。
現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。

忍城の見どころ

御城下町行田

行田(ぎょうだ)は忍城の城下町として発展してきました。
東西に走る本町通り(絵図中央の大通り・現在の国道125号線)と、本町通りから南にのびる新町通り(あらまちどおり・絵図右側の縦にのびる通り)に面して、さまざまな町屋がありました。この通りは、日光参詣の脇往還で、鴻巣から館林にぬける街道でもありました。
二つの通りの交わる交差点には、高札場があり、その付近には本陣・脇本陣がありました。
また、本町通りの東で南にわかれる通りは、大工町ともいわれ、阿部氏の忍城修築のとき集めた大工さんたちが住んだことから、その名がついています。

 

三階櫓(ごさんかいやぐら)

忍城址忍城の実質的な天守閣として機能した建物で、明治6年に解体されましたが、昭和63年に再建されました。櫓は展望室や行田の今昔を写真や資料で紹介する展示室になっています。郷土博物館から入館できます。

鐘楼(しょうろう)

鐘楼に提げられた鐘は、殿様が伊勢桑名より忍へ移封となった際に桑名より持ってきた鐘を模したもので、本物の鐘は郷土博物館に展示されています。毎年12月31日には年越しの鐘が撞かれ、賑わいます。

鯱鉾(しゃちほこ)

御三階櫓の屋根に戴く鯱の大きさは1.8mで、日本最大級の大きさです。御三階櫓の展示室に同じ物が展示されています。

浮き城の径(うきしろのみち)

忍城址の東小路と商店街や公園通りのアクセスとして、市役所の南側に隣接して、木陰と水の流れが美しい遊歩道「浮き城の径」が整備されています。平成6年3月に完成しました。

 

 










川口市エクステリア工事店
 
お庭のリフォーム工事


久々のランチのupです。

カテゴリー:ランチ

投稿者:mineta

いつもありがとうございます。 今日のランチです。 マーボー定食です。 普通が大盛なんです。 とってもお腹がいっぱいになり、満足感がとっても有りで最高です。 オカズとライスの配分がとっても難しく、いつもマーボーが買ってしまいますね。 image ご馳走さまでした。

真っ赤なポスト

カテゴリー:お庭のリフォーム

投稿者:mineta

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いつも有難うございます。

赤いポスト格好いいですね。

 

 

 

白い壁には、目立ちますね。

でも良く考えると、町のポストは、赤ですよね。

どぇも最近のポストは、格好いいのですが、初めて入れる方は非常に緊張すると思いますよ。

入れ方が難しいですからね。

皆さんも十二分に使い方を覚えてくださいね。

 



 

 










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企画営業, 現場管理 峯田 彰

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